テレビからはひっきりなしに政治界のニュースが流れていた。
どこかの官僚が、なにか知らないけどまた悪事をはたらいたらしい。だけど、そんなことは今の僕にとって、大した問題ではなかった――そう、大した問題ではなかったんだ。
かといって、今のところ特にすることもなく――もうすぐ忙しくなるのだろうが――安物のソファに寝ころびながら、その悪事をはたらいた官僚とやらの貧相な顔を眺めていた。背はあまり高くなく、頭には白髪が混じり、こういうとなんだけど、いかにもな小悪党的な顔つきをしていた。
手に持ったポテトチップスがきれたことを知ると、隅の方に残ったくずを口の中に流し込んで、ソファから立ち上がらずに手が届く場所に置いてあるくずかごに放り込む――外れた。
できればそのままにしておきたかったが、そういうわけにもいかないので、わざわざ立ち上がってくずかごに入れる。
と、僕はなにげなく――なにげなくみえるように――、壁に取り付けられている時計に目を移した。
11時15分――そろそろ『彼女』が来る時間だ。僕はざっと古ぼけたアパートの部屋の中を見回し、痕跡が残っていないことを確認し――いいじゃないか。僕だって18の健康な男なんだから。
「でも……いまいちそれを認識してないんだよなぁ」
そうため息をつくと、僕はソファに腰掛けようとし――
ぴぽぴぽぴぽぴぽぴぽん!
――もう一度ため息をついた。
『彼女』が来たんだ。今時子供でもやらないようなチャイムの押しかたをするのは、『彼女』ぐらいのもんだ。
僕は、ドアを開けて――そして、そこには僕の予想通りの顔があった。
「やっほー、シンジ」
「こんばんは、アスカ」
幸せは腕の中に
「ビール買ってきたのよ、一緒に飲みましょう」
そう言って、アスカは満面の笑みを浮かべながら手に持ったコンビニのビニール袋を見せつけるようにかかげてみせた。その格好は、いつものTシャツにショートパンツというラフな格好である。
僕はそれを確認すると――確認するまでもなかったが――いつも口を酸っぱくして言っていることを今夜も繰り返した。
「あのねぇ、アスカ。年頃の女の子がこんな夜中にそんな格好でうろついてると……」
「はいはい、いいからいいから。全く、オヤジくさいわねー」
オヤジって……僕はアスカを心配して言ってるのに……
アスカは、そんな僕のすねたような思考は意に介せず――これもいつものことだ――僕の返事も聞かずに家に上がり込んだ――これもいつものことなんだ。
アスカは僕がさっきまでねっころがっていたソファに軽やかに腰を下ろし、早速袋から何本もビールを取りだし、テーブルの上に並べ始めた。なぜか一つも同じ銘柄のものはない。
僕もいつも通りため息を一つつき、アスカの隣に少し間を空けて座る。
「アスカ……前にも言ったけど、未成年はお酒飲んじゃいけないんだよ」
「いいじゃないの、どうせ後2年なんだし」
分かるような分からないような理屈をつけ、アスカは袋からビールを取り出す。
僕はあきらめて、しばらく一心不乱にビールを並べるアスカの手の動きを見ていた。
――と、アスカのビールを取り出す動きが止まる。どうやらこれで全部らしい。
「んじゃ、飲みましょ。はい、あんたはこれね」
と、自分もひとつとり、僕にもひとつ押しつける。
「それじゃあ、かんぱーい!」
何に乾杯するのかよく分からなかったが、とりあえず僕も付き合いでアスカと同じようにビールの缶を持ち上げる。
缶同士がこん、とあまり優雅でない音を立てる。アスカはプルタブを開けると、そのまま一気に飲み干した。僕はその隣でちびちびと飲んでいる。
一缶をものの数秒で飲み終えたアスカは、すこし呆れるように僕の方を見て――二つ目に手を伸ばした。それにしても今日のアスカはピッチが早い。普段から酒好きだけど、一気に一缶を飲み干すような飲み方は普段ではあまりしない。
「アスカ……飲み過ぎじゃない?」
いつの間にか5本以上足下に空のビール缶を転がしたアスカに、僕は思ったことを率直に口に出した。別に量がどうこうというわけではなく、5分もたたないうちにこれだけのビールを飲み干してしまったことについて言っているのだ。だが、アスカにその真意は伝わらなかったらしい。
「なによ。あたしがこれぐらいで酔うわけないでしょ」
やや胸を張るように言ってくる。
「そうじゃなくてさ……ほら、あんまり早く飲むと……それに……こんな時間に男の部屋で酔いつぶれたりしちゃったら……」
アスカは、徐々に尻すぼみになってくる僕の言葉を聞いて、すこしきょとんとした表情を見せた後、腹を抱えて大笑いを始めた。
「な、なんだよ……」
「そ、それじゃあ、なに? あんたが、あたしを、このあたしを押し倒すとでも言うわけ? あー苦しい」
なんだよ……そこまで笑わなくたっていいじゃないか。それに、アスカは知らないんだ……いつも、アスカが帰った後に僕が何をしているか……
「ふーん、シンジ君があたしを押し倒すわけ。へぇー、シンジ君がねぇ」
まるっきり子供をからかう口調で、アスカ。本当に僕のことを男としてみてないんだろうか……?
なんとなく落ち込みながらも、ビールを喉に流し込む。ビールの苦みのある味が喉を灼くように通り過ぎた。ちなみに、僕はまだ二本目だ。
アスカはまだ時々思い出したように笑っている……酔ってるな。突然――僕は目の前のアスカを押し倒したい衝動にかられた。いくらアスカがケンカに強いといっても、不意打ちで男の力で押さえつければ逃れられないだろう。僕はそっとアスカの肩に手を伸ばし――
「ねえ、そういえばさ、シンジ」
突然こちらを振り向くアスカ。僕はあわてて手を引っ込めた。
――僕は一体何をやろうとしてたんだ……
思わず自己嫌悪に陥るが、アスカはそんな僕の様子にも気づかない様子で続けた。
「ミサトと加持さん、来月結婚するんだって」
アスカの言葉に現実に引き戻される。
僕はその言葉に軽い驚きと――ああ、やっとかという安堵感を感じていた。
ふたりは全てが終わった後、互いに素直になれず――主にミサトさんが――今までずっと周りをやきもきさせてきたのだが、こんどやっと結婚することになるという。アスカは「さすがにミサトも33になって焦ったのね」と、笑っていたが、本当は時間が必要だったのだろう。自分の心に区切りをつけるための。
――そして、僕は区切りをつけられたのだろうか、自分の心に。少し自問する。――が、所詮そんなこと当事者である僕に分かるわけがないし、当事者である僕以外の人にもわかるはずがない。
ただ、それとは全然関係無しに――ふと、思うところがあって聞いてみた。
「……アスカは、大丈夫なの?」
アスカはその意味をすぐに察したようだった。軽く手を振り、
「なにいってんのよ。加持さんへの憧れなんて、もうとっくにあきらめてるわよ。……それに、この気持ちはあくまでも『憧れ』であって、『恋』ではないもの」
僕は、とりあえずふぅん、と相づちを打った。そこまで割り切れているのならもう大丈夫だろう。
「それにしても……なんでふたりとも僕に知らせてくれなかったんだろう……」
「だから、あたしがあんたに知らせてくれって頼まれたのよ」
「……いつ?」
「……2週間ほど前かしら」
視線など逸らしつつ、アスカ。僕はもう一度深い深いため息をついた。
そのとき、ふと僕の視界に時計が入る。その今時珍しいアナログ時計の針は、もう既に1時過ぎを示していた。
「あれ? もう、こんな時間だ。アスカ、大丈夫なの?」
いつもは12時を過ぎれば帰るのに。
「ん?……そうね。……でも、もうちょっといようかな」
なんかアスカの様子がおかしい。さっきから、無理にはしゃいでるように見えるし、時々ふと表情に影が落ちる。
……なんかあったのかな。
まあ、いいさ。アスカに何か辛いことがあったのなら、僕にできることは隣で一緒にビールを飲んであげることだけだ。
僕はソファに座り直して、3本目のビールに手を伸ばした。
ビールのプルタブに指をかけた瞬間、ふと隣を振り向くとアスカと視線が合った。
その時の気持ちは……なんて言えばいいんだろう。とにかく、僕はハッとしたんだ。アスカは僕を見ていた、親に捨てられた子犬のような目で。僕は理由もなくその目に責められているような気がして、思わずついと目をそらしてしまった。
その時だった。
隣でアスカが息を吐く音が聞こえた。あまりふくらんではいない肺から、無理に押しだしたような吐息。
「……ごめんね、遅くまでいて。……あたし、帰るね」
と、寂しげに――少なくとも、僕にはそう見えた――アスカは、ソファからあまり深くも座っていなかった腰を上げた。
「あ、あの……」
引き留めるように右手を挙げながら僕は絶句してしまった。
――なんて言えばいいんだろう? 僕は、アスカになんと言ってあげればいいんだ?
アスカは、冷たい目で一瞬、僕を見下ろしてから玄関に向かった。
「ま、待ってよ、アスカ!」
急いで立ち上がり、アスカの背を追いかける。
「送ってくよ」
「……いいわよ、別に。ひとりでも帰れるから」
その言葉に僕は一瞬身を引きそうになったが、アスカの肩に手を当ててしっかりと――そう聞こえるよう意識しながら――言った。
「そんなわけにはいかないだろ。女の子に夜道の一人歩きをさせるなんて」
アスカは、しばらく無表情に僕の顔を見つめていたが、「勝手にすれば」と一言だけ呟いて、玄関から出ていった。
生暖かい風が吹いている。
昼の間に暖められた大気は、夜になっても冷めることなどなく、多量の湿気を含んで僕の顔をなでていった。僕は髪が短いからいいけどアスカは髪が長いから大変だろうな……
目の前で揺れる、この4年間で見事な金髪になったアスカの髪を見つめながら、僕はそんなことを考えていた。
僕は封建制度時代の女房よろしく、アスカの後ろを3歩の間隔で歩いていた。
あの後、アスカは一言も口をきいてくれない。
……僕が何か怒らせるようなことをしたんだろうか……
……やっぱり、さっき目をそらしたのがいけなかったのか……
答えの出ることのない問いを繰り返しながら、僕はややうつむき加減に歩く。
アスカの借りているアパートはそう遠くない。その証拠に、僕の家から徒歩5分で着いてしまった。
アスカは3階の自分の部屋まで一言も話さずに階段を上った。
「307号室」とプレートのついた部屋の前で立ち止まり、ポケットの鍵を差し込む。
がちゃっと音を立てて、鍵が開いたことが分かった。
アスカはドアノブに手をかけたまま僕の方を振り向き、
「……送ってくれてありがと。じゃあね」
そう無表情に言うと、ドアを開けてすべり込むようにその中に入っていく。
――その時のことは、僕もあまり覚えていない。
ただ、頭の中が真っ白になって……次の瞬間、異常なまでの焦燥感にかられたんだ。『このドアが閉まったら、アスカが居なくなってしまう』、そんな非現実的な――でも、その時の僕にとってはそれこそが真実だった――思考が頭を支配した。
そして――頭の中に次の思考が浮かぶより早く、僕の体は動いていた。
「アスカ!」
後ろから彼女の細い――あまりにも細い――体を抱きしめる。
――――アスカ――――
――そして、熱い時間は過ぎた。
僕の隣に、裸のアスカが横たわっている。
「……ねえ、シンジ……」
彼女は、ブルーの瞳で天井を見つめたまま、続けた。
「……どうして、あたしを抱いたの?」
先ほどまでの抑揚のない声ではなく、確かに生きた、感情のこもった声でそう聞いてくる。
僕は、少し口ごもって――悩む必要などほんの少しもないことに気づき、言った。
「そんなの……アスカのことが好きだからに決まってるじゃないか……」
なんてこった。これじゃあまるで順序が逆じゃないか。抱いた後に告白するなんて……
僕は少し自嘲気味に笑うと、
「ごめん……迷惑だったよね。ただ、あの時から――初めて会ったあの日から、僕は……ずっとアスカのことが好きだったんだ……本当にごめん。こんなことして……」
「違うの!」
アスカは短く叫ぶと、僕の体に腕を回してきた。
その腕に力を込めて、続ける。
「あたしも……あたしも、ずっとシンジのことが好きだった!……でも、シンジの気持ちが分からなくて……シンジは誰にでも優しいから、不安になって……でも! シンジのことが……好きだったから……」
「アスカ……」
僕は、アスカの言葉に呆然としながらも――アスカを抱きしめた。
アスカのぬくもりが、僕の体に直に伝わってくる。
まだ、アスカが僕のことを好きだと言ってくれるのが信じられなかった。勝ち気で、いつも僕を馬鹿にしていたアスカ。何でも出来て、常に他人より勝ることを自分に要求してきたアスカ。……僕が好きな、アスカ。
アスカの鼓動が僕の耳にも届く。僕の鼓動とアスカの鼓動が協和して、一つのリズムを刻む。
「……あたしね、友達に告白されてたの」
アスカの唐突と言えば唐突な言葉に、僕は少し体を振るわせた。
「とてもいい人なの……それで、その人ならシンジを忘れさせてくれるかもしれないと思って……今夜、シンジと何もなかったら……告白、受けようかと思ってた……」
……僕があの時に感じた予感は本物だったんだ。
そして、その言葉を聞いて、僕の中にある決心がかたまっていた。
僕は、アスカを抱きしめる腕に力を込めた。アスカは少し苦しそうな声をあげたが、僕はそのまま言った。
「アスカ……愛してるよ。この世界で一番、誰よりも君のことを愛してる。死ぬまで一生、君を愛し続けるよ……」
「……あんた、よくそんなセリフが恥ずかしげも無く言えるわね……」
「こんな時に茶化さないでよ……」
僕は微苦笑をもらした。そして、すぐに真剣な顔を作ってアスカの顔をのぞき込むようにして言った。
「――結婚しよう、アスカ」
僕の言葉に、アスカはびくん、と体を振るわせた。おそるおそる、といった風に僕の顔をのぞき込んでくる。
「……いいの? あたしなんかで……」
「アスカじゃなきゃだめなんだ」
僕は、我ながら陳腐なセリフを吐くと――だが、その中にこもる想いは誰にも負けない――、アスカを強く強く抱きしめた。
腕の中の幸せが、もうどこにも行かないように…………